戦勝の7・27をもたらした軍事的奇跡

現代包囲戦の立派な模範―大田解放作戦

【平壌7月9日発朝鮮中央通信】2万4220余人の敵を殺傷・捕虜、2万余挺の狙撃兵器、150余門の各種の砲、40余両の戦車、1010余両の装甲車と自動車を破壊および鹵獲、30余機の飛行機を撃墜・破壊。

これは、世界の戦争史に現代包囲戦の立派な模範として記された祖国解放戦争(朝鮮戦争1950年6月25―1953年7月27日)時期の大田解放作戦の戦果を見せる資料である。

当時、戦争を挑発したが敗戦を繰り返して南の方へ追い払われていた敵は、大田を「臨時首都」に定め、侵略武力を大々的に引き入れる一方、錦江と小白山脈の有利な自然地理的条件を利用してわが人民軍部隊の進撃を食い止めようと愚かにもくろんでいた。

その企図を見抜いた偉大な領袖金日成主席は、大田で敵を包囲、掃滅する作戦的方針を打ち出した。

前線主要打撃方向の人民軍部隊の錦江強行渡河を策定、指揮した金日成主席は、ソウルに設けた前線司令部に出向いて大田を迅速に包囲する妙案を示した。

大田西南側の論山にまで進出した人民軍部隊を回して大田を攻撃するようにし、その一部を一夜の間に大田東南方向へ100余里(朝鮮の十里は日本の一里に相当)も迂回、機動させて大田に対する包囲を実現するようにした。

人民軍部隊の行動がいかに不意かつ機動的であったものか、敵は大田南側の九峰山で人民軍を発見したとの報告を受けても自分らが包囲された事実を信じようとしなかった。

1950年7月20日、金日成主席が下した大田市街に対する総攻撃命令に従って北と北西、西の方向から一斉に攻撃に移った人民軍部隊は、またたく間に敵の防御陣地を占領し、市街戦を繰り広げて敵を圧縮、掃滅した。

「常勝師団」と虚勢を張っていた米第24歩兵師団をはじめとする敵は、完全に壊滅し、攻撃開始7時間後に大田は解放された。

大田で「模範を示して信頼を得る」と大言していた米第24歩兵師団長のデーィンは、命でも救ってみようとみすぼらしい兵士の服装をして逃亡するうち、ある人民軍戦士に捕らわれてしまった。

大田解放作戦に次いで人民軍部隊は、金日成主席が引いてくれた勝利の矢印に従って南の方へ進撃を続けた。---