戦勝の7・27をもたらした軍事的奇跡
新しくて独創的な軍事戦法―坑道戦
【平壌7月22日発朝鮮中央通信】偉大な領袖
朝鮮戦争を挑発した時から1年間、米帝は挽回できない軍事的・政治的惨敗を喫したが、わが共和国に対する侵略的野望を捨てず、戦争を一層拡大しようと狂奔した。
敵味方双方が対峙し合った状態で戦争が長期化する当時の新しい軍事・政治情勢に対処して
坑道戦法は、わが軍の力量を最大限に保存しながらも戦争の主導権を握って敵の攻撃をそのつど撃退できるようにした朝鮮式のチュチェ戦法であった。
坑道戦法の優越性と生命力は、祖国解放戦争の第4段階(1951年6月11日―1953年7月27日)の全期間にわたって余すところなく誇示された。
1951年9月、前線東部の1211高地界線にまで自ら出向いた
その結果、基本戦線に坑道陣地が設けられ、特に戦術的に重要な高地に多様な形態と規模の坑道が掘られ、これらは野戦陣地と結合されて一つの堅固な陣地体系を形成するようになった。
1952年の一年間だけでも、米帝は1211高地を中心にした地域に1平方キロメートル当たり平均4160発の爆弾を投下し、52万7260発の砲弾を撃ちまくり、1810余回にわたる機銃射撃を加えた。
1211高地の防衛者たちは、堅固な坑道防御陣地に依拠して敵の無差別な爆撃と砲撃、「波状攻撃」を無用の長物にした。
敵兵2万9000余人を殺傷・捕虜、敵機40余機を撃墜、敵戦車60余台をはじめ数多くの兵器と戦闘技術機材を鹵獲、破壊した。
当時、米帝の戦争首魁(しゅかい)であったリッジウエーは、坑道化した人民軍の防御線を指して「その防御線はおそらく世界に知られているものの中で最も威力ある防御線」であろうと悲鳴を上げた。---